DIC川村記念美術館の休館によせて
■DIC川村記念美術館とは
京成上野駅から特急電車で1時間、のどかな風情の残る京成佐倉駅に降り立ち、停留所で送迎バスに乗り込んで、揺られることさらに30分。車窓からの風景を眺めるのにも飽き、うとうとするころに到着したのが、DIC川村記念美術館(2025年4月より休館中。以後、川村記念美術館)だ。
川村記念美術館は、印刷インキ・有機顔料・合成樹脂等の製造販売事業を展開するDIC株式会社(以後、DIC)が運営する美術館である。1990年に千葉県佐倉市の総合研究所敷地内に開設され、レンブラントの肖像画、モネ、ルノワール、ピカソ、シャガールといったヨーロッパ近代美術、ロスコ、ステラ、コーネルらの20世紀アメリカ美術など、幅広いコレクションを収蔵している。
筆者が初めて同館を訪れたのは2010年だった。専用展示室である「ロスコ・ルーム」で、空間と一体となったロスコの壁画の迫力に圧倒され、企画展では一転してコーネルの小さな木箱の世界を楽しんだ。展示鑑賞後は緑豊かな庭園を心地良く散策した記憶がある。
しかしながら今年3月末、川村記念美術館は佐倉での活動を終えた。一人のファンとして残念に感じているこの出来事について、そのいきさつを振り返ってみたい。
【写真】
左:2024年11月の川村記念美術館 右:庭園内の広場で多くの人がくつろいでいた
■休館に至る経緯と背景
DIC公開資料をもとに、簡単に経緯をまとめておこう。2024年4月、DICは長期的な企業価値向上に向け、価値共創委員会を設立する。同委員会は美術館運営をテーマとして取り上げ、計6回の審議の結果、美術館の存在価値・目的・理念の明確化や株主に対する説明責任が求められること、美術館のダウンサイズ&リロケーション(縮小・移転)もしくは運営中止が現実的な案となりうることを、取締役会に対し助言した。これを受けて取締役会が詳細を検討し、同年8月に美術館の休館を発表、12月には保有作品数を4分の1に縮小し東京都内へ移転する方針が明らかにされた。
美術館の運営方法を見直すこととなった背景として、東京証券取引所の市場改革、DICの業績低迷、アクティビストによる株式取得が挙げられる。
近年、資本コストを意識した経営と情報開示、株主との対話などが強く求められるようになっている。DICの価値共創委員会設立もそうした流れの中でのことだが、業績は厳しい状況だった。2017年には営業利益565億円・営業利益率7.2%だったのが、2023年は営業利益179億円・営業利益率1.7%に低迷。資本効率を示すPBRは2020年から2023年の間、東京証券取引所が改善を要請する1倍割れの状態が続き、重要な経営課題とされていた。
一方で、DICに対しては、アクティビストとして知られる香港の投資ファンド、オアシス・マネジメントが株式保有割合を高めている。2023年度末時点で6.9%を取得し、株主提案を行う可能性が報じられていたが、美術館運営についても見直しを求めたと言われている。(注1)
このように、DICを取り巻く複数の状況が重なり、美術館の運営方法見直しに至ったようだ。
■美術館の運営形態について
すでに各種メディアにおいて指摘されている通り、川村記念美術館がDICの直営であったことは、今回の出来事の大きなポイントである。
企業を母体として設立された美術館は数多くあるが、その運営は財団法人が行うケースが多い。(注2)たとえばサントリー美術館はサントリー芸術財団、SOMPO美術館はSOMPO美術財団、ポーラ美術館はポーラ美術振興財団、アーティゾン美術館は石橋財団が、それぞれの運営を行っている。
一方、数は多くないが、企業が直接運営を行う美術館もある。三菱一号館美術館や森美術館、東急文化村が運営するBunkamuraザ・ギャラリーなどがその例だ。(注3)運営主体である三菱地所や森ビル、そして東急文化村を含む東急グループは、いずれもまちづくりを事業としている。これらの美術館は、まちに人を集め、まちの価値、ひいては企業の価値を高める存在としても理解できるだろう。
それに対し、DICの主な事業は冒頭に記した通り、インキ・顔料等の製造販売である。「『色』に関わる企業にふさわしい社会貢献活動」として美術館を位置付けており、それ自体は否定されるものではないが、事業や企業の価値向上という観点に立つと、そのストーリー上に位置付けにくい。そして上場企業である以上、株式を取得した株主から強い要求を受ける可能性は避けられず、今回はそれが現実となってしまった。
■国際文化会館との協業・移転
今年3月、DICは川村記念美術館について、国際文化会館との協業による移転を発表した。民間企業と公益財団の連携という新しい試みであり、運営体制については今後検討していくとされている。どのような運営体制が構築され、川村記念美術館が新たな歩みをはじめるのか、引き続き注目したい。
国際文化会館は六本木の高台にある。モダニズム建築の巨匠・前川國男・坂倉準三・吉村順三の設計による本館(登録有形文化財)、近代日本庭園の先駆者・七代目小川治兵衛による庭園(名勝)が織りなす空間は都心とは思えない趣深いもので、今後建設される新西館に建築家ユニット・SANAAがどのような「ロスコ・ルーム」をつくるのか、楽しみだ。佐倉と比べてアクセスは抜群に良くなるので、リニューアルオープンの際には、是非見に行こうと思っている。駅からは坂道を上るので、真夏は避けて…。
注1:オアシス・マネジメントはその後も株式保有割合を高め、公開質問や株主提案を行いDICに対する圧力を強めており、DICはその内容の一部に対し抗議している。
注2:ここでは、企業の歴史や製品、技術などを展示する企業博物館・企業ミュージアムは除き、美術作品の展示などを行う美術館に限定している。
注3:Bunkamuraザ・ギャラリーは現在長期休館中、他会場にて展覧会を開催している。
【参考資料】
■DIC株式会社公開資料
・2023年度決算説明資料
・DICレポート(統合報告書)2024
・「価値共創委員会の設立および運営開始に関するお知らせ」(2024年4月26日ニュースリリース)
・「価値共創委員会による「美術館運営」に関する助言並びにそれに対する当社取締役会の協議内容と今後の対応についての中間報告」(2024年8月27日ニュースリリース)
・「『美術館運営』見直しの検討結果並びに今後の美術館運営に係る方針についての最終報告」(2024年12月26日ニュースリリース)
・「DICと国際文化会館がアート・建築分野を起点とする協業に合意~建築ユニット SANAA が「ロスコ・ルーム」を設計~」(2025年3月12日ニュースリリース)
■美術手帖オンライン
・「DIC川村記念美術館の休館から考える、「社会資本」としての美術館」(2024年8月31日)
・「DIC川村記念美術館はなぜ国際文化会館に移転するのか?DICトップが語る『美術館』の新たなかたち」(2025年3月13日)
■日本経済新聞
・「オアシス、DIC株を6.9%保有 重要提案行為も」(2023年12月28日)
・「文化インフラ 決壊前夜4 市場原理とせめぎ合い」(2024年11月7日)
■東京証券取引所公開資料
・「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応について」(2023年3月31日)