「トリクルダウン」に代わるものとは?

2023年6月29日 / 主席研究員 太田 雅文

 徐々にあふれ落ちること、を意味する「トリクルダウン」は、富める者が富めば、貧しい者にも自然に富がこぼれ落ちてくる、とする理論である。格差が拡大したとしても貧困層の所得が底上げされるはず、と考えられ、アベノミクスをはじめ、経済成長を目指した政策の根底にあった。筆者が英国滞在した1990年代中頃の都市開発もこの考え方に根差していた。Growth Poleという成長拠点を設定した上、シンボリックな拠点開発からこぼれ落ちてくる富により、周辺エリアのまちづくりが良い方向へと進む、というものであった。
 平成の時代を謳歌おうかしたわが国の「都市再生」も同様の文脈で語られる。多機能・用途が混在する複合型巨大開発・超高層ビルにより街の拠点性は高まり、人口と経済活動の集積は富を生み出す。ここからこぼれ落ちてくるものにより周辺エリアも潤う、というモデルである。都市政策的には容積率規制を緩和することを条件に、事業者主導型で合わせて都市基盤整備も進めることにあるが、外部効果=トリクルダウンを内部化する目的で、拠点開発プロジェクトの一環としてエリアマネジメント(エリマネ)も組織化されることになる。
 一方、この拠点開発が周辺からリソース(たとえばオフィステナント)を吸い取り開発しても地域は衰退する、ということは起こらない。なぜならば、開発主体がエリマネ組織を一体的に、地域をブランディングしてしまうからであり、従って開発物件と周囲が対峙たいじするというよりも、街間あるいは東京と他都市、たとえばシンガポールとか香港とかが競合する構図になっている。
 このような開発&エリマネの仕組みはうまくいくようにも見える。が、ここで1つの疑問は浮かんでくる。それは、これって長続きするものなのか?いわゆる「サステナブル」なものなのか?ということである。多くの企業城下町が経済変動や産業構造変化の影響を受けてきた歴史を振り返ると、果たして「トリクルダウン」がどれだけ永続するものなのか、はなはだ心もとない。そもそも1デベロッパーが地域まちづくりの先導役であり続けることに無理がある。人材や資金に限りはあるし、それほど「万能」ではない。よって地域側から見れば、企業(あるいは行政)に頼るのではなく、社会課題解決や持続的成長に向けた地域発のアイデアやイノベーションをどれだけ生み出せるのか、ということがポイントとなろう。
 つまりエリアマネジメントの目的は、当初は「トリクルダウン」という上から下への一方向の価値の受け皿であったのであるが、一定の期間後には相互に価値を交換するためのプラットフォーマーへと役割を変えていかなければならない。そのためにはどうすべきか?以下、仮説的記述になるが、記してみたい。
 まず、良いアイデアやイノベーションはどうすれば生まれるのか、ということである。ひらめきはなにげない会話や議論から生まれることが多い。従って、人と人とのコミュニケーションは重要である。コロナ禍後はオンラインによる交流も増えたが、やはりリアルに勝るものはなかろう。まちづくり的には交流の「場」づくりが課題となる。人と人をつなぐコミュニケーションプラットフォームの運営とともに、街中に実際に人が集える「プレイス」の設営、さらには複数のプレイスを結びつけるネットワーク化を進めなければならない。
 ただ、そもそもその前に、その街で暮らす人々にまちづくりや社会課題(たとえば脱炭素)に関心を持ってもらわなければならない。この観点から、人が多く集まる公共的な空間(たとえば駅とその周辺)のデザイン性を高めることは効果的ではないか。人々が街へと誇りを持つ、シビックプライドが高まりへと結びつく。公共交通主導型開発、いわゆるTODを担う事業者の責務といえよう。問題となるのは、こういった一連の価値向上に向けた取り組みが短期的な収益増とは無関係であることにある。損益計算書上には費用のみ計上され収入は増えていない。企業価値向上に向けた「投資」的意味合いの意義についてステークホルダーに説明しなければならず、このためのKPIをどうするのか、ということが課題であろう。交流が地域価値の源泉であるのであれば、その量すなわちソーシャルキャピタルであったり、関係・交流人口を計測することをスマートシティの枠組みで考え、政策や戦略への適用が求められている。