ポジティブ・シンキング

2022年3月7日 / 主席研究員 丸山 秀樹

 ポジティブな思考はポジティブな現実をもたらし、ネガティブな思考はネガティブな現実をもたらす。つまり、自分の思ったことは実現すると説く『引き寄せの法則』が、ビジネス書や自己啓発本などで数多く取り上げられ、静かなブームになっている。アメリカでも「動機づけの心理学」などと呼ばれ、以前から出版界やセミナーでは日本以上にもてはやされているようである。
 スポーツ界では、ポジティブなイメージを持つことが好成績を残すための定説のようになっており、ビジネスにおいても、シリコンバレーをはじめとして「失敗とは、挑戦しないことによってチャンスを逃すこと。失敗を恐れて挑戦しないことこそが本当の失敗である」と喧伝され、成功イメージを持って積極的にチャレンジすることが推奨されている。そして、スポーツやビジネスだけでなく、今や恋愛や金運、健康、人間関係などさまざまな分野で『引き寄せの法則』が有効に働く万能薬であるかのごとく紹介されている。
 『引き寄せの法則』という思考法は、オーストラリアのテレビ作家、プロデューサーであるロンダ・バーン(Rhonda Byrne)が、2006年に公開した映画『ザ・シークレット』をもとに、同一タイトルの自己啓発本を著したことから話題となった。
 映画『ザ・シークレット』は、動機づけ理論家や自己啓発指導者のほか、風水、コーチング、心理学、哲学、医学などさまざまな分野の専門家20名へのインタビューをインスピレーショナルな構成で編集し、秘密を部分的にほのめかすテクニックやスピリチュアルな演出も凝らしていたことで人気を博した。そのうえで、バーンは著書においても映画でのインタビューを引用しながら、ポジティブ・シンキングな『引き寄せの法則』を主張したのである。

 一方、この法則が19世紀半ばにアメリカで生まれたニューソート(New Thought)*1と呼ばれるキリスト教の異端思想に源流を発していることや、科学的な概念は援用しているものの、論点の裏付けとなる根拠があいまいなことなどから批判の声もあがっている。ちなみに、日本でもベストセラーになった『マーフィーの法則』*2や、成功哲学の第一人者といわれるナポレオン・ヒル *3が著した『(邦題)思考は現実化する』もニューソートの流れを汲んでいる。
 また、ニューソートに代表されるポジティブ・シンキングは、精神科医学の分野で『認知の歪み』(Cognitive distortion)といわれる誇張的で科学的根拠があいまいな非合理的思考パターンであるから、抑うつ状態や不安を永続化させる恐れがあると指摘されている。つまり、そうした思考が人に過剰な自信を植えつけたり、自身過剰な人が他人にも自分と同等な期待を抱いたりして、現実を不正確に認識するリスクがある。また、思ったことが上手くいかなかった場合には自己責任という意識が強まるなど、歪んだ考え方によって逆にネガティブな気分を生み出すことがあるとしている。

 ポジティブ・シンキングを説く自己啓発本は発行部数が多く、アメリカでも日本でも常にベストセラー上位に食い込んでおり、大衆セラピー文化の一形態として存在感が増しているといわれる。実際にそうした書籍を読んだり、セミナーを受講したりして元気な気分になった、勇気が湧いてきた、モチベーションが高まったという人は数知れないであろう。だからこそ売れているのである。
 私自身も異端思想に源流を置く思考法だとか、『認知の歪み』を生むからといった理由でポジティブ・シンキングを否定するつもりはない。若かりし頃には、ナポレオン・ヒルの成功哲学やデール・カーネギー *4の著書『人を動かす』などの自己啓発本を、赤ペンを持ちながら熟読したほうである。先般、久しぶりに自宅の書棚から引き出して眺めてみたが、当時は大いに刺激を受け、発奮させられたことが脳裏によみがえってきた。
 ただし、自己啓発本の著者も多種多様で、単なる受け売りに終始していたり、あまりにもスピリチュアルに偏向していたりするものなど、その内容の質については千差万別といえよう。極端な例としては、マルチ商法の販売員研修などでよく用いられるポジティブ・シンキングのトレーニング手法を、セールスの鉄板法則のように紹介する例もあるので注意が必要である。
 ポジティブ・シンキングの難しいところは、その思考を持続することである。思考持続の手法として、ポジティブな感情を毎日ノートに書き連ねたり、自身の夢や目標を絵や写真にしたりしたものを毎日眺めるとか、自己啓発本にはさまざまな方法が紹介されていると思うが、通常ポジティブな思考はそう簡単に間断なく持続できるものではない。人間には誰しも感情や体調の波があるので、ポジティブにと思ってもなりきれないことのほうが多い。その方法については、自身に合ったやり方を見出すしかないだろう。私の場合は、〇〇の法則などよりも、先達に関する数々の具体的事例から、その人の生き方などに感銘し、元気をもらっていたように感じている。

*1:ニューソート(New Thought)
19世紀のアメリカで始まったキリスト教における潮流のひとつだが、一種の異端的宗教・霊性運動ともみられている。従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱く思想家や労働者、零細な農場や工場の経営者らが触発された。ニューソートは「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し、アメリカ人の価値観や成功哲学、自己啓発ツールの一部となっている。

*2:マーフィーの法則(Murphy’s law)
米国で活動したアイルランド出身のニューソート系教会の牧師、ジョセフ・マーフィー(Joseph Murphy 1898~1981年)が提唱したポジティブ・シンキングについての自己啓発本をパロディー化した『マーフィーの法則』(1993年刊)は、日本でもベストセラーとなった。
これ以降、日本の出版界では『〇〇の法則』というタイトルのビジネス書や自己啓発本が急増したともいわれる。

*3:ナポレオン・ヒル(Napoleon Hill 1883 ~1970年)
自身の思考が現実に影響すると説くニューソートの思想をビジネスに応用し、世界的なベストセラーとなった『思考は現実化する』のほか、『巨富を築く13の条件』、『成功哲学』などの自己啓発本が有名。

*4:デール・カーネギー(Dale Breckenridge Carnegie 1888~1955年)
アメリカの作家で教師。自己啓発、セールス、企業トレーニング、スピーチおよび対人スキルに関する各種コースの開発者。

【参考文献】
『ニューソート その系譜と現代的意義』マーティン・A・ラーソン/日本教文社
『ポジティブ病の国、アメリカ』バーバラ・エーレンライク/河出書房新社