“推せる”劇場がもたらす効果

2023年3月22日 / 研究員 六鹿 マリ

■劇場を“推す”
 “推し”という言葉がすっかり世間に定着したように感じられる。元々は主に女性アイドルグループの中で最も応援しているメンバーを表す言葉だったが、今や“推し”の対象となるのは芸能人にとどまらず、アニメキャラクター、漫画作品そのもの、果ては城や刀といったものまで、“推す”人の数だけ無限に広がっているといっても良いだろう*1。
 中でも、舞台俳優やアイドル、あるいはミュージカルや演劇といった、リアルの場での活動を主軸とするコンテンツを熱心に好むファンたちにとって、“推し活”、つまり“推しを応援する活動”あるいは“推しにまつわる消費活動”をする場のひとつである劇場は、切っても切り離せない存在であり、並々ならぬ関心や思い入れを持つ人も少なくないと思われる。
 ファンたちの劇場への関心の高さがとりわけはっきりと感じられるのは、新たな公演情報が解禁された際だ。筆者自身、ひとりの観劇好きとして身の回りのコミュニティや不特定多数のSNSを眺めていると、内容や配役、制作陣といった公演の良し悪しを直接左右する事項だけでなく、上演劇場がどこかについても大きな話題になる。ファンから大いに歓迎される劇場もあれば、そうではない劇場も存在する。劇場までもが“推す”対象になっているといっても過言ではないだろう。

 実際に“推し劇場”ランキングと銘打って、ツイッターなどにおいて、観劇ファンが趣味や卒論制作などの目的で、劇場に関するアンケートを個人的に行なっているのをしばしば目にすることがある。そこで語られる内容からは、好きな劇場に対する情熱が感じられる。
 そのような“推し劇場”ランキングのひとつとして、ここではNHKの情報番組「あさイチ」が独自にアンケートを行なったものをご紹介しよう。


出所:NHK「推し劇場ランキング*2」から抜粋

 一方で、ツイッター等のSNS上でよく目にする“推し劇場”アンケートでは、好きな劇場と同時に嫌いな劇場も聞いていることが多い。そこで挙がっている内容をみると、その主な理由としては、前に座る人の頭や手すりなどが視界の妨げになる、音響が悪い、動線が悪いといった点に集約されるだろう。これらの点については、筆者も何度も実感している。特に、視界や音響といった観劇体験そのものを大きく左右する劇場の肝ともいうべき点に対して、観客から不満が出ることは残念である。

■“推せる”劇場とは
 良い劇場の条件というのは、観やすさや音響といった機能面の良さは大前提として、観劇という「ハレの日」の体験をより素敵に演出してくれるような情緒的価値をも兼ね備えた劇場であると筆者は考える。
 そういった観点から、筆者の“推し劇場”は、NHK「推し劇場ランキング」にもランクインしている日生劇場(村野藤吾設計、1963年開業、1,334席)だ。舞台の観やすさや立地の良さもさることながら、建築探訪の番組でも取り上げられるほどの美しい劇場であり、とりわけ2万枚もの貝殻が散りばめられた天井をはじめとした豪華絢爛(けんらん)な装飾が施された空間には、一歩足を踏み入れただけで高揚感が得られる。

 劇場の内部からさらに話を広げると、行き帰りの道も観劇体験を盛り上げるうえで大切な要素ではないだろうか。行きは観劇前の高揚感を感じさせ、帰りは余韻に浸りながら歩いたり、友人と感想を語り合いながらお茶や食事をしたくなるような店があったりする、そんな空間が劇場の外にも広がっていれば、観劇という非日常の楽しみをより味わいつくすことができるだろう。つまり、機能的にも情緒的にも優れた劇場というハコが不可欠なのはもちろんのこと、劇場を中心としたエリア全体で演出していくことが効果的であると筆者は考えている。

■劇場が街にもたらすもの
 素晴らしい劇場での観劇体験は、演目から得られた感動を増幅させ、よりいっそう忘れがたい価値あるものになるだろう。加えて、エリア一帯で「ハレの日」を演出することによって、劇場だけでなく、街全体に対しても格別の愛着が観客の中に生じるのではないか。つまり、素晴らしい観劇体験をもたらす劇場、さらに劇場と一体になって演出された周辺エリアは、単なる集客にとどまらず、街の魅力向上に持続的に貢献すると考える。

 劇場の運営においては、収益性に加えて建築上の様々な制約などもあることから、理想ばかりを追求するのは難しいということは承知している。しかし、先に述べた通り、良い劇場の価値というのは劇場そのものにとどまらず、エリア全体に波及効果をもたらすものと考えられ、街づくりにおいて重視すべき核ととらえることができる。視界や音響の良好さといった、劇場が当然備えるべき機能的な価値に加え、建築物としての美しさなど、訪れる人を非日常の世界へといざなう情緒的な価値をも兼ね備えた“推せる”劇場がつくられ、そしてその魅力を最大限に引き出すような、エリアとして一体感のある街づくりが行なわれることを期待している。

*1:近年“推し”という言葉が一般化したことで、当初の「応援する、人にすすめる」といった意味合いから単に「強く好む」といったニュアンスで使われることが増えたと同時に、人間以外のものを対象とする場面も見受けられる。
*2:NHKプラス公式ツイッター(@nhk_plus)(22.01.19)(https://twitter.com/nhk_plus/status/1483604630726746112)より