趣味を通して社会(環境)問題を考えてみる

2019年6月28日 / 主席研究員 川上 剛彦

放流に頼る日本の渓流
流れに翻弄されつつ頼りなさげに流れる小さな毛鉤けばり。何かが起きる期待感に息をするのも忘れる。と、次の瞬間、水面が割れ、水飛沫しぶきとともに尺ヤマメの銀鱗がきらめく。すかさずロッド(釣り竿)を立てると、躍動する生命感がビリビリと伝わってくる。周囲から隔絶されたような静謐から圧倒的な動への転換。釣り人がもっとも興奮するドラマティックな瞬間である。
筆者の趣味は釣りである。なかでもフライ・フィッシングは、いわゆる下手の横好きというやつで、二十数年来その魅力に取り憑かれている。冒頭のシーンは筆者が思い描く理想のシーンだ。しかし理想通りにいくことは、もちろん滅多にない。悲しいことに、特にこの日本の渓流では・・・。
それはなぜか。一般的には意外に知られていないようだが、日本の内水面(河川、湖沼)の魚類資源のほとんどは、ごくまれな一部の地域を除き、人為的な放流に頼らざるを得ない状況にある。なかでも、漁業資源として、あるいはレクリエーションの対象としての価値が高い鮎や鮭鱒けいそん類(サケ、マス、イワナ、ヤマメなど)は、放流なくしては枯渇してしまう(著しく魚影が薄くなる)可能性さえある。
要は、捕り過ぎで自然繁殖が追いつかないのだ。漁業資源として商業的に利用される分だけでなく、内水面においては、釣り人のプレッシャーもバカにならない。
必要以上のキープ(持ち帰り)はしない、キャッチ・アンド・リリース(C&R)を励行する、といったことがまだまだ浸透していないことが原因である。C&Rには効果がないという悪しき誤解もいまだにあるようだが、それは違う。主にアメリカにおける研究によると、とくにフライやルアーなどの疑似餌で釣った場合、生餌を使った場合に比べて深く飲み込まないため(あるいはバーブレスフック(かえし、、、のないハリ)を使用することも多いことから)、リリース後も多くの魚が生き残ることがわかっている。
しかし、我が国ではC&Rが定着していないことや、近所に配るほど魚を持ち帰る人が絶えないがために、魚が枯渇する。枯渇すれば魚が釣れずおもしろくない。そうなれば、釣り人はその釣り場から離れてゆく。だから釣られて魚影が薄くなったら養殖魚を追加放流する。そのために入漁料が高くなる(この入漁料についてはまた別の問題もある)。
山間やまあいでの渓流釣りは、景色・渓相、釣趣の良さから、重要な観光資源の一翼を担っている地域も多く、魚が釣れず、釣り人からそっぽを向かれることはゆゆしき問題である。「魚がいない」、「あそこは釣れない」という噂が立つのをとても嫌がる。ゆえに釣られたら追加放流をする。欧米ではあり得ないことだが、たくさん放流していることを自慢げに宣伝文句にしている地域さえも少なくない。
しかし、その場で放流したばかりの養殖魚相手では釣り堀となんら変わらず、おもしろいわけがない(実際にはおもしろいと思う人も少なくないようだが――筆者にとってはおもしろくない)。このような場当たり的な対処療法を続けていくことはいかがなものだろうか。また、放流魚はその水系固有のDNAを持った魚とは異なることもあり、厳密にいえば環境汚染(遺伝子汚染)という点でも問題である。

こんな状況であるから、料理屋や旅館でよく見かける、鮎やヤマメ、イワナなどの川魚に冠された“天然”などという表現は、正確にいえばほとんど“誤用”である。おそらく、そのように表現するのは、詐欺でも悪意でもなく、疑いもなくそう思っているからだろう。養殖場から仕入れたものではなく、河川・湖沼で捕獲したものを“天然”だと思ってそう呼称していることが多いことと推察する。確かに広義にはそれ自体は間違いではないのかもしれない。
しかし、本来の“天然”とは、人為の一切加わっていない、自然繁殖で再生産される野生の在来種(Native)のことではないだろうか。
よく混同されやすいのが、“野生”(Wild)と“天然”(Native)(注)である。上記の例は、“野生”ではあるが、”天然”ではない。養殖された発眼卵ないしは稚魚・成魚が放流され、それが自然の川に棲息している状態は単に“野生”であって“天然”とはいえない。
ご存じでない方がおられるかもしれないが、ニジマスも外来魚である。もはや在来種であるかのような存在だが、実は人為的に放流したものが野生化して定着しているケースであって、つまり“野生”(Wild)ではあるが、本当の意味での“天然”(Native)ではない。

大型の「天然魚」が泳ぐ渓流へ
欧米では珍しくない、“天然”の大きな魚がたくさん泳ぐ川。我が国にもそんな川が沢山あったら、どれだけ素晴らしいことだろう。
いまだに、釣った魚はすべて持ち帰るのが常識に近い我が国だが、このままそういうことを続けていていいのか、そろそろ真剣に考えてみるべき時期に来ているのではないだろうか。
少なくとも、食べきれずに近所に配るほど持ち帰る必要があるのだろうか。あるいは、10cmや15㎝にも満たないような稚魚を持ち帰ることはどうなのか。
まずは、我が国の多くの内水面における人気魚種が、養殖魚の放流に頼っていることを多くの国民が認識し、その原資である入漁料をきちんと払い、必要以上の持ち帰りをしないことが当面の課題(目標)だろう。その上で、多くの人がC&Rをするのが基本になっていくこと――これが将来的に目指すべき姿ではないかと思う。
C&Rの推進には課題もある。そもそも、漁業法やその下位規定である遊漁規則等では、「採補する」ことに制限を設けているわけだが、再放流(C&R)する場合は「採補」に当たるのか当たらないのかすっきりしない。C&Rをする者からすれば「捕っていない」という不満になりやすいし、逆に「捕って帰りたい」者にとっては、「同じ料金ならできるだけ多く持って帰らないと損」といった考え方になってしまう。たとえば、C&Rをする場合には、「遊漁料/入漁料」ではなく、「環境保護税」なり「資源保護協力金」などとした上で、通常の「遊漁料」よりも負担を軽くするといった工夫の余地があるはずだ。C&Rが人口に膾炙かいしゃすれば、いつか我が国にも天然魚に恵まれた良好な河川環境が復活することだろう。

もうひとつのシナリオ
しかし、実は、ここまで述べてきたことがまったく意味をなさなくなるもうひとつのシナリオがある。その空恐ろしいような、それでいて実はそれこそが本来あるべき姿であるかのようにも思えるシナリオが、頭の片隅にこびりついて離れない。
打つ手もなくこのままの勢いで人口減少と高齢化が進展すれば、自然環境に対する人的プレッシャーも、自ずと急速に軽減されてゆく。そうなると、短期的には人的管理の不行き届きにより森林や内水面環境の荒廃や災害への脆弱性が惹起されるかもしれないが、超長期的には、なにもせずともなりゆきで本来の自然環境に帰してゆくのかもしれない――。
人間が一番悪い、人間がいなくなるのが自然にとっては一番よいこと――そんな悲しいオチにならないように、我々は考え、行動していかねばならないと切実に感じている。

注:「wild」が「天然」という概念を包含する場合もなくはないが、ここでは、「在来性」「地域固有性」「土着性」に着眼し、そのニュアンスの強い「native」と使い分けている。