都市伝説 ~自衛隊の紋章にある「桜」は洗足池から始まった?

2018年8月17日 / 主席研究員 岸 泰之

 研究所らしい“かたい”話が続いているので、本コラムでは肩の力を抜いた“やわらかい”話をしたい。
 東急池上線のとある駅の近くに、私の祖父、父、そして私の子どもまで4代にわたってお世話になっている“床屋さん”がいる。80歳をとうに超えた年齢ながら、彼は週末にはお店を開け、古くからの常連さんの髪を切っている。
 この“床屋さん(店主)”、そして町の長老である常連客たちの話が実に楽しい。理髪中に気持ち良さのあまりうとうとすることもあるが、たいていは彼らの話に聞き入っている。そんな数ある話の中から、“華やかな”イメージのある東急線にあって、“地味”な存在といわれる東急池上線にとって、栄誉?な話をひとつ紹介したい。
 今日の海上自衛隊の紋章には、「桜」がモチーフになっており、旧大日本帝国海軍時代から引き継がれている。
 ちなみに、日本では法定の「国花」はないが、広辞苑によると「国花」に準じるのは「菊」または「桜」とされる。その由来についてみると、「菊」は皇室の家紋から、そして「桜」は一般の人々に親しまれ、愛されているから、ということらしい。
 しかし、四季折々に咲く花がたくさんある中で、旧海軍から今日の海上自衛隊にまで至るまで、なぜ「桜」がその紋章のモチーフとして引き継がれているのか。
 そこで、 “床屋さん”の問わず語りによる、海上自衛隊の紋章の「桜」が東急池上線沿線の洗足池に由来する、という“物語”である。
 「洗足池」「海軍」「桜」ではなかなかピンとこないが、そこに「勝海舟」を加えるとどうだろう。
 勝海舟といえば、幕末に初の軍艦奉行に就き、明治維新後も海軍の発展に尽力した、いわば日本の海軍の生みの親ともいうべき人物である。彼は、現在の両国で生まれ、赤坂で長く暮らしているが、彼の別邸がかつては洗足池のほとりにあり(戦災で焼失)、勝夫妻の墓所は現在もそこにある。なぜ、彼は洗足池を気に入ったのか。
 一般的には、幕末の江戸城無血開城について西郷隆盛と会見するために、官軍が本陣を構える池上本門寺に勝海舟が向かう際に洗足池に立ち寄り、風光明媚な場所として当地を気に入った、と言われている。
 “床屋さん”の話によれば、勝海舟は山岡鉄舟とともに、赤坂の自宅から現在の246号線(大山街道)と環状七号線を通って、馬で池上本門寺に向かう途中、路に迷って洗足池のほとり、現在の図書館がある辺りに出たらしい。そこにあった茶屋で勝海舟らが休んでいる時に、通りすがりの人に路を尋ねたところ、主だった街道周辺に殺気だった武士の一団が潜んでいることを偶然聞かされた。官軍との会見の妨害、あるいは自身の暗殺の可能性を察した彼らは、現在の洗足流れ・呑川に沿った“地元の道”を教えてもらい、馬を下りて徒歩で向かうことで、無事池上本門寺に着くことができたという。つまり、偶然とはいえ洗足池(の茶屋)は、勝海舟にとって“命の恩人”であり、そのような縁もあって洗足池を好んだという。歴史に“たら、れば”は意味をなさないが、勝海舟の人柄に倣って大げさに云えば、洗足池(の茶屋)がなく、彼がそのままの進路で向かっていたら、明治維新前夜の江戸の風景は相当に変わっていたかもしれない。
 その後、勝海舟は洗足池のほとりに別邸をおくとともに、日本古来の水軍の守り神である厳島神社を設けるために、洗足池の中に人工的な島(現在の洗足池弁財天)を作った、という。その際に近隣の丘(当時、桜山といったらしい)の一部を崩すことになり、そこに群生していた桜の木を洗足池周辺や近隣の比較的大きな屋敷に移植したという。そして、明治、大正、昭和と時代が進み、洗足池周辺が区画整理を経て東京の住宅地として変わっていく中で、一定規模の宅地には桜が植樹されるようになった。
 このように、「洗足池」~「勝海舟」~「海軍」~「厳島神社」~「桜」と、“床屋さん”の話には“筋”が通っている。この“伝説”、信じる、信じないはあなた次第。
 真偽はともかく、今般のNHK大河ドラマ「西郷どん(SEGODON)」に絡めて、歴史の“脇役”的な「舞台」である、東急池上線の洗足池に足を運んでみませんか。