食糧危機と食料安全保障

2022年6月13日 / 主席研究員 丸山 秀樹

 ロシアのウクライナ侵攻を契機として、世界的な食糧危機が懸念されている。とくにウクライナやロシアの主要輸出産品である穀物の不足が深刻化することが予測され、世界銀行は「1970年代以降で最大の商品市場ショックを引き起こす」と警告している。また、国連食糧農業機関(FAO:Food and Agriculture Organization)が発表する食料価格指数注1は2月24日の侵攻開始以降、60年前の記録開始以来最高値を記録し、なかでも穀物の価格指数は170超にも達したという。
 このような状況が続くと、十分な食べ物が入手できるかどうか分からない人の数は、世界で16億人に達し、飢饉の瀬戸際に立たされている人も2.5億人近くにものぼると推計される。このため、国連世界食糧計画(WFP:World Food Program)は「途上国を中心に第2次世界大戦以来、目にしたことのない食糧難が襲ってくる」と、最大限の危機感を持つよう注意喚起している。
 そうした状況下、大国を中心に穀物を囲い込む行動も懸念されている。ちなみに、適切な環境で保存されていれば、小麦・白米・トウモロコシ・砂糖などは30年以上の備蓄が可能である。既にインドは熱波による不作と国内安定供給を理由に小麦の輸出を停止しており、中国は世界の穀物在庫約8億トンのうち半分以上、5億トン近くを抱えていると米国農務省が推計している。
 中国は穀物相場が3倍に上昇した2008年の世界食糧危機以降、いち早く将来に備えた食糧戦略を打ち出しており、自国民への安定供給だけでなく食糧難にあえぐ途上国への支援も見据えているようだ。ただし、それは親中派国家を増やすための「債務のわな注2」のひとつとも推察されている。
 一方、農林水産省食料安全保障室によると、日本の穀物備蓄量は、政府備蓄米が約100万トン注3。食糧用小麦は国全体として外国産食糧用小麦の需要量の2.3カ月分。飼料穀物はトウモロコシなど100万トンを民間備蓄しているという。中国の人口が約14億人、日本の人口が約1.25億人と大差があるものの、中国に比べると日本の備蓄量は2桁も少ない。
 さらに、穀物不足だけでなく農業用肥料も世界的な価格高騰が顕在化している。世界一の肥料大国は中国で、ロシアとその友好国ベラルーシも塩化カリウムなどの主要輸出国であり、日本もこれらの国への依存度が高い。今後のウクライナ情勢次第では、世界的な肥料不足によって野菜や果物などの生産にも影響が及ぶ恐れがある。EU諸国に至っては農薬の大半までもロシアからの輸入に依存しているというから、なおさら懸念は大きいだろう。
 東西冷戦が続いた1980年代までは、米国が大豆、トウモロコシ、小麦の在庫を豊富に持ち、食糧不足に陥った国々に食糧を供給する「世界のパンかご」の役割を果たしていた。この役割を担わなければ、それらの国々がソ連化(共産化)していく恐れがあると判断したためである。
 しかし、プーチン大統領が「ロシアは農産物の純輸出国になった。今や世界160カ国をカバーしている」と言及している今日、食糧危機が迫っているとみればかつての米国のように、ロシアが食糧難にあえぐ途上国に対し、親露派国家に引き入れる狙いで「世界のパンかご」の役割を果たそうとするかもしれない。いわゆる「食糧の武器化」である。
 そして、中露関係においても食糧は重要な役割を果たす。中国は世界最大の小麦生産国であるにもかかわらず2020年以降の輸入量が急増し、世界の小麦需給がタイト化する一要因になっている。さらに、ロシアがウクライナ侵攻を始めた2月24日、ロシアからの小麦輸入を拡大すると発表した。中国はそれまでロシア産小麦に対して、植物検疫の基準を満たしていないことを理由に輸入制限を行ってきたが、それを全面解除してロシアのどの地域からでも輸入可能としたのである。西側諸国による経済制裁に追い詰められるロシアにとって、その恩恵は少なくないであろう。
 中国の中長期的シナリオとしては、「一帯一路」の回廊沿い国家と共同するカタチでの食料安全保障戦略が垣間見られる。これまで、中国~モンゴル~ロシア経済回廊、中国~パキスタン経済回廊、黒龍江省とロシアの農業協力(大豆、小麦)などが構築されており、ウクライナとも2015年に「一帯一路」協定を締結している。2020年には湖北省武漢市~キーウを結ぶ貨物列車「中欧班列」を開通させ、ウクライナ産穀物を吸い上げる大動脈を完成させた。さらに、中国事情に詳しい専門家によると、中国には世界の各国から肥料に加工する原料を囲い込もうとする動きもみられるという。
 こうした事態を受けて世界各国が具体的な対策に乗り出しているが、日本の食料安全保障をめぐる動きには出遅れ感がある。食料安全保障はエネルギー安全保障と肩を並べる最重要課題と捉えるべきであるが、現時点ではエネルギー安全保障ほどの切迫感も感じられない。
 自民党内では、「食料安全保障に関する検討委員会」が2月に発足し、5月19日に、国際情勢の変化に伴い、過度な輸入に依存するわが国の食料生産体制を抜本的に見直すよう指摘。「思い切った食料安全保障予算を新たに確保し、農林水産関係予算の拡充と再構築を」と提言した。しかし、具体的にどうすればよいかという本格的な政策論議はこれからで、今後講じるべき食料安全保障施策に関しては、令和3年6月付で農林水産省が公表した「食料安全保障対策の強化について」が最新の提言となっている。しかしその内容は、新型コロナウイルスの感染拡大リスクは踏まえているものの、ウクライナ戦争勃発後の情勢分析等はもちろんなされていない。
 最近では、日本の食品メーカー各社でも円安や世界的食品原材料高騰の影響から、相次いで販売価格の値上げに踏み切る動きが活発化しており、食糧需給の先行きにはなお不透明感が漂っている。また、畜産に必要な穀物飼料や農産に必要な肥料・農薬がひっ迫すれば、価格高騰は加工食品だけでなく生鮮食品を含む食品全般にまで波及する恐れがある。
 さらに、もしも台湾有事が現実となったらどうなるのか。日本の農林水産物の主な輸入相手国は1位こそ米国だが、2位は中国であり輸入量全体の13.4%(2020年)を占めている。台湾有事に中国と日本が敵対すれば、経済制裁によって輸入が制限されるという事態は避けられないであろう。加えて、戦闘規模によっては日本周辺の海上交通路(シーレーン)が閉ざされ、食糧輸入のサプライチェーンは機能不全に陥り、国民が想像できないほどの食糧危機に襲われることさえあり得る。
 5月31日、参議院予算委員会で岸田総理大臣は、「ロシアによる軍事侵攻によって世界の食糧の安定供給が阻害され、人道上の危機が生じている」とし、現地の状況を注視しながらどのような貢献が可能か検討する考えを示したが、海外への人道的食糧支援が必要なことはもちろんのこと、安全保障の観点からも日本国内の食糧需給がひっ迫しないよう期待したい。

注1:食料価格指数
肉・酪農品・穀物・野菜・油糧・砂糖の国際価格について、2014~16年平均=100とした指数

注2:債務のわな
国際援助を受けた国が、債権国から政策や外交などで圧力を受ける事態に陥ること。近年では中国からのアフリカやアジア・南太平洋地域向け支援について、西側諸国から「債務のわな」ではないかと推察される例が多い。

注3:政府備蓄米100万トン
10年に1度の不作(作況指数92)が2年連続しても米不足が発生しないと考えられる量。

【参考】
農林水産省ホームページ
自民党ホームページ